川崎フロンターレに所属していた選手ではないのですが、
中村憲剛の中央大学時代の2学年下の、
柴村直弥(しばむらなおや)
という選手を知っていますか?
あまりに稀有なサッカー人生を歩んでいる選手ですので、
かなり興味をもってしまい…
今度始めることも面白すぎるので、
ちょっとまとめていきたいと思います。
この記事の目次はこちら
柴村直弥が、東京1部Criacaoで選手・コーチ・クラブ経営の三刀流に挑戦
面白いニュースが入ってきました。
柴村直弥とは?
広島県広島市出身のサッカー選手。
ポジションはディフェンダー。
Jリーグではそこまで活躍したわけではないので、
アビスパ福岡サポーター以外は、
もしかしたら、知らない選手かもしれません。
柴村直弥(しばむら・なおや)のプロフィール
生年月日…1982年9月11日(34歳)
ポジション…DF
身長/体重…180cm/78kg
出身地…広島県広島市
【柴村直弥の経歴】
2005年 – 2006年 アルビレックス新潟シンガポール
2007年 アビスパ福岡
2008年 徳島ヴォルティス
2009年 – 2010年 ガイナーレ鳥取
2010年7月 – 同年12月 藤枝MYFC (期限付き移籍)
2011年 FKヴェンツピルス(ラトビア)
2012年 – 同年7月 FCパフタコール・タシュケント(ウズベキスタン)
2012年7月 – 2014年7月 FKブハラ(ウズベキスタン)
2014年7月 – 2016年1月 OKSストミール・オルシュティン(ポーランド)
2016年 – 同年12月 ヴァンフォーレ甲府
2017年 – CRIACAO
シンガポールSリーグ26試合。
J1は0試合、J2は24試合、JFLは13試合、東海1部4試合。
ラトビアのヴィルスリーガでは、16試合。
ウズベキスタンのPELでは、39試合。
ポーランドでは出場なし。
獲得タイトル
国内での主要タイトルはありませんが、
ラトビアや、ウズベキスタンでは、
タイトル獲得したり、それに近いところまで行っています。
ラトビアカップ 優勝: 2011
バルティックリーグ 準優勝: 2011
ラトビアヴィルスリーガ 優勝: 2011
ウズベキスタンカップ 3位: 2012
柴村直弥のサッカー人生をまとめます
柴村直弥はとてもおもしろい人生を歩んでいます。
まとめて振り返ってみます。
柴村直弥の中学生時代
中学校の卒業式の翌日に、
ACミランのユースチームに留学する。
1カ月間の短期留学で、
ユースの寮に入って、ユースの選手と一緒に過ごし、
ミラノダービー(サンシーロ)のボールボーイをしたことが、
欧州への夢を持たせることになったと語っています!
ミラノダービーの相手のインテルには、
ロナウド(元ブラジル代表)がいたそうな。
柴村直弥の高校生時代
短期留学から帰ってきて、柴村は、広島皆実高校に進みます。
2年先輩に朝日大輔、1年先輩に瀬戸彬仁・秦賢二、
同級生に田村和也・堀健人らを擁する広島皆実高校は、インターハイで勝ち進みます。
2年次には、全国高校総体で同校初優勝。
千葉県立八千代高等学校との決勝戦では、
試合を延長戦に持ち込む同点ゴールを決めるなど活躍。
試合は延長戦の末決着が着かず、
3−3の引き分けで総体サッカー競技史上初めての両校優勝。
日本一になりました。
森崎和幸・浩司兄弟・駒野友一・寺内良太らと広島県選抜のメンバーとして、
1999年熊本国体で全国3位。
翌年2000年とやま国体では全国5位。
同年全国高等学校サッカー選手権大会に出場するも、
2回戦で東北高等学校に敗退。
柴村直弥の大学生時代
中央大学では現日本代表の中村憲剛とプレー。2年先輩です。
関東大学2部リーグ優勝に貢献。
リベロのポジションでリーグ最少失点となる堅守を構築して、
攻撃でも最終戦の中村のFKを頭で押し込んだ先制点を含む3得点。
関東大学2部リーグベストイレブンを受賞。
柴村直弥のシンガポール時代
大学卒業後、Jリーグからは声がかからなかったものの、
アルビレックス新潟シンガポールに入団し、
初年度から両サイドバックで主力として活躍する。
柴村直弥のJリーガー(アビスパ~ガイナーレ)時代
2007年アビスパ福岡へ移籍。Jリーガーとしてデビューを飾ります。
その時のアビスパの監督は、リティこと、
ピエール・リトバルスキー監督。
同ポジションには監督がシドニーFCから連れて来た
元オーストラリア代表のチェッコリがいましたが、
チェッコリ不在時に出場したときには安定したプレーで、
アビスパ福岡のサポーターにはかなり愛されていた模様です。
そして、柴村もたびたび、アビスパの話をブログで書いたり、
ツイッターで昇格時にはかなり喜んでいたりと、
相思相愛の関係らしいです。
アビスパが消滅危機の時の柴村選手のブログはこちら⇒柴村選手のブログ。
その後2008年の徳島ヴォルティスでは、
チーム史上初めて移籍1年目で主将に抜擢され、
センターバック、左サイドバックを務め、
2009年ガイナーレ鳥取に移籍。
ヴィタヤ・ラオハクル監督の元、
開幕2戦目でアシスト、3戦目ではゴールを決めるなど、
序盤戦首位を独走するチームに大きく貢献する活躍を見せる。
2010年シーズン、ヴィタヤ・ラオハクル監督の交通事故により突然監督が交代。
出場機会を失います。
2010年7月、藤枝MYFCへの期限付き移籍が発表されると、
移籍以降すべての公式戦に先発出場するも、
同年シーズン終了後に藤枝MYFCを退団。
保有権を持つガイナーレ鳥取も退団して、
自身のブログでかねてからの夢である欧州に挑戦することを表明しました。
柴村直弥の海外時代
柴村の最初の海外移籍先はラトビアのFKヴェンツピルス。
2010-11シーズンには国内リーグを制している強豪。
ここには、オファーで入ったのではなく、柴村自身の売り込みで入ったそうです。
柴村は過去にインタビューで、
まず、これまでの日本でのプレー映像を編集して、自分のプロモーションDVDを作ったんです。その道のプロの人に頼んでやってもらうこともできたのですが、自分でやらないと納得できないんじゃないかと思い、映像編集ソフトを買って、自分で映像を作りました。
DVD編集のできる友人に見てもらったりしながら、時間をかけて作りました。映像の時間は9分15秒です。このDVDを受け取る相手の立場になって考えたら、見ず知らずの日本人の映像がいきなり送られてきて、そもそも興味がないところから入るわけですから、飽きないくらいの時間にしなければいけないなと。
と語っていました。
この行動力が、海外移籍の扉を開いたんでしょうねー!
映像としては、具体的に、自分の強みをしっかりとアピールしたそうです。
ヘディングの強さと相手に激しくいけるところをピックアップしたものにしたそうです。
そして、代理人が映像を見て、可能性があると判断して、
売り込みをかけてくれるようになったそうです。
その結果、11年の1月にFKヴェンツピルスのキャンプに練習参加。
その練習参加の日程もかなりタイトだったらしく、
ある日、実家のある広島で友達と夜ご飯を食べていたら、「明日ラトビア行ける?」という連絡があって(笑)。どういう国かもよく分からなかったのですが、「とりあえず行きます」と返事をして、次の日の午前中には確定申告を済ませて、夜にはパスポートを持って空港へ行きました。
明日原宿行ける? くらいの感じで言われたので焦りましたね(笑)。FKヴェンツピルスがその時リトアニアでキャンプをしていたので、関西国際空港から一人でイスタンブールへ飛んで、ラトビアのリガを経由して、リトアニアまで行きました。急だったのでトランジットがスムーズな便ではなくて、日本を発ってから35時間くらいかかりました。
というような唐突なものだったらしいですw
練習から本当にガツガツいっていて、
ある時チームメイトに、
「お前は相手チームの選手からクレイジーボーイって言われてるぞ」
って言われたぐらいのフィジカルで、
ラトビアでも活躍。
ラトビアではタイトルを獲得
迎えた新シーズンで、見事リーグ優勝を果たし、
チャンピオンズリーグの出場権も獲得。
しかし、次のシーズンには一転して、
アジアのウズベキスタンに移籍することに。
これには、
ヨーロッパリーグに出場して、
3回戦でセルビアのレッドスターに負けた経験から、
今の自分の力では、CLに勝つ、という夢には、
まだまだ全然無理だなと、強く思ったことが、きっかけとのことです。
12年に移籍したパフタコール・タシュケント(ウズベキスタン)、
同年7月に移籍したブハラ(ウズベキスタン)でもチームの信頼を勝ち取り、
14年7月加入のストミール・オルシティン(ポーランド)を経て、16年に甲府へ移籍。
6年ぶりの日本復帰となった同シーズンは、カップ戦1試合の出場にとどまり、
昨年11月5日に契約満了が発表されていた、柴村が選んだ次の道が、
このブログを書くきっかけでした。
柴村直弥のCRIACAOへ移籍。選手・コーチ・クラブ経営の三刀流に挑戦
東京都1部リーグのCriacao(クリアソン)では、
柴村選手は選手兼コーチ兼エグゼクティブマネージャーに就任しました。
選手としてプレーするだけでなく、コーチとして現場をオーガナイズし、
エグゼブティブマネージャーとしてクラブ経営にも関わって行くそうです!
「これまで海外含め様々な場所でプレーし生活していく中で、思考して主体的に行動していくことや価値観の多様性を尊重することの大切さを肌で感じてきました。Criacaoは自分が感じてきたことと同じようなことを大切にしているクラブだと感じました。これまでの経験を最大限に生かしてクラブの力になっていき、様々な側面からサッカーを捉え、クラブと共に自分自身も成長しながら一歩一歩前に進んでいきたいと思っています」
このチャレンジ面白すぎるでしょ!!
普通のJリーガーや、日本人サッカー選手が、
歩んでない道を歩んできた柴村選手。
しかもそれを切り開いてきたのは、
柴村選手ご自身。
そういう選手が、切り開いてくCriacaoというチームの将来が、
すごい楽しみになりました!!
柴村直弥と中村憲剛(川崎フロンターレ)
最後に、そういえば、このブログ、
フロンターレサポーターブログだったので・・・・
中村憲剛との思い出を語ってるブログを引用しますw
これは2006年10月05日 18時38分20秒 に、
ガーナ代表との試合に初出場した、
中村憲剛について書かれたブログ。
憲剛さんは大学のときの2つ上の先輩ですが、当時からうまかったですね
守備陣のおれらからすると頼りになる存在でした相変わらずの前かがみぎみのプレースタイルとO脚ですが、どんどん成長していきますね
おれも憲剛さんに負けないように成長してきたいと思います
O脚がどんどん成長www
たぶん中村憲剛という選手は、
いつだって、後輩にいじられて伸びてきた選手なんだろうなー。
そう思わせてくれる、
素晴らしいブログでしたw
中村憲剛の人の好さと、柴村直弥選手、コーチ、エグゼブティブマネージャーのこれからの活躍を期待しています。
長いブログになってしまいしたが、読んでいただけたら幸いです!!